詩篇6篇
指揮者のために。弦楽器に合わせて。第八の調べにのせて。ダビデの賛歌。
6:1 主よ御怒りで私を責めないでください。あなたの憤りで私を懲らしめないでください。
ダビデは、苦難の中にありました。七節、八節から不法を行う敵が近くにいたことがわかります。しかし、ダビデは、その苦難を「主の御怒り」による「責め」、また、「憤り」による「懲らしめ」と考えていました。彼は、すべてが主の御手のうちにあってなされることであることをわきまえていました。そして、苦難を経験したとき、自らを省みました。具体的に罪を犯していたということではなく、主がいつまでもお答えになられないので、自分が懲らしめを受けていると考えたのです。
6:2 主よ私をあわれんでください。私は衰えています。主よ私を癒やしてください。私の骨は恐れおののいています。
「あわれむ」は、主が求めるものに喜んで応えることを表しています。これは、契約の条項です。彼は、主に求める者に喜んで応える契約に基づいて求めているのです。ですから、この時、彼は、罪を犯して、神から離れていたということではないのです。
ダビデの状態は、衰えていました。まず、「骨」が恐れおののいていたのです。骨が比喩であることは明らかです。骨は、その人自身の持つ「教えあるいは考え、思想であり、その人の行動の基準」を表しています。ダビデの持つ教えは、神様の教えに整合していました。しかし、今は、自分自身の持つ教えが神の御心に整合しているかどうかに疑いを抱き、恐れているのです。
・「あわれむ」→主が求める者に喜んで答えること。契約の条項です。
6:3 私のたましいはひどく恐れおののいています。主よあなたはいつまで──。
さらに、たましいがひどく恐れおののいていました。たましいは、神様の御心に従って生きる部分すなわち座です。彼が、主に従って生きているという確信があるならば、恐れる必要はないのです。しかし、彼の持つ教えにゆらぎが生じたとき、その歩みも確信のないものになります。そこには、恐れが生じるのです。
彼がそのように感じたのは、彼の苦難がいつまでも続いたからです。主から懲らしめを受けているのだとすれば、自分は、本当は正しくないのではないかと考えるのです。彼の求めたことは、癒やされることです。その癒やしとは、神の前に自分が正しい教えを持ち、正しく従って生きるこです。それを願いました。
6:4 主よ帰って来て私のたましいを助け出してください。私を救ってください。あなたの恵みのゆえに。
彼は、たましいの救いを願いました。助け出してくださいと。それは、たましいが神の前に健全に歩むことです。それが神の御心であり、神はそのような信仰者を助けてくださるのです。
これは、死ぬことからの救いということではありません。たましいが神の前に健全に歩むことを求めているのです。このような問題のために彼が躓き、神から離れる者となることがないように願っているのです。
彼は、それを神の「恵み」に基づいて願いました。この恵みは、「契約に対する忠誠」です。神が信仰によって求める者に応えることは、契約によることです。たとい、その者が罪を犯していたとしても、神に立ち返るならば受け入れてくださることは、契約によることです。その契約を忠誠をもって果たされることが、「恵み」です。信仰によって求める者のたましいを救うことが「契約」です。神様が契約を果たされるときは、忠誠をもって果たされるのです。
・「恵み」→契約に対する忠誠。
6:5 (なぜならば)死においてはあなたを覚えることはありません。よみにおいてはだれがあなたをほめたたえるでしょう。
なぜならば、死の中では、あなたを覚えることはないからです。彼が求めているのは、たましいの救いです。この死は、たましいが死んだ状態のことを表現していて、神が答えることなく、彼が神から離されている死んだ状態を指しています。彼は、主と共に歩むことを願っていましたが、その確信が揺らいでいるのです。そのような状態では、神を覚えることができないことを言い表してます。
また、よみは、死と同じく、たましいが神と共に生きていない滅びの中にあることを表現しています。たましいにとって、神と共に生きないことは、滅びであるのです。そのような状態で、だれが神を褒め称えるでしょうか。
6:6 私は嘆きで疲れ果て夜ごとに涙で寝床を漂わせふしどを大水で押し流します。
彼の嘆きは、激しかったのです。彼が心を注いでいたのは、自分のたましいがどのような状態にあるかということです。彼は、本当に神の御心に適っていないのではないかということで、嘆いていたのです。その嘆きは激しいものでした。涙は、洪水のように溢れ出ました。
6:7 私の目は苦悶で衰え私のすべての敵のゆえに弱まりました。
彼は、自分の目が苦悶で衰えたことをひどく気にしていました。目は、信仰の比喩です。彼の苦悶は、神様に対する信仰を衰えさせたのです。彼が、揺るぎなく神に従っているという確信に立つことができなかったからです。自分の苦難を懲らしめではないかと考えたとき、彼は、信仰が揺らぐことになったのです。敵が自分を取り巻いているという事実を見たとき、それは、神の助けが与えられていないということを表していました。そのことが彼の信仰を揺るがすものとなったのです。
6:8 不法を行う者たちみな私から離れて行け。主が私の泣く声を聞かれたからだ。
6:9 主は私の切なる願いを聞き主は私の祈りを受け入れられる。
そのような中で、彼には確信がありました。それは、敵は、不正を行う者たちです。自分は神の前に自分を省み、神を求める者でした。主が自分の泣く声を聞かれたという確信がありました。泣く声は、心からの求めです。本当に神の前に正しくあることを願う求めです。それを神は退けないことを知っていました。御心に適う願いを神が聞いてくださることを知っていたのです。それが、神の恵みであり、彼は、契約に基づいて祈ったのです。ですから、聞いてくださるという確信がありました。これは、信仰による願いなのです。
6:10 私の敵がみな恥を見ひどく恐れおののきますように。彼らが退き恥を見ますように。瞬く間に。
彼は、敵が恥を見るように願いました。彼らのしていることは、不正です。それを神様が放置されることはないのです。彼らは、不正の中にありながら正しい者を責めています。今、力を現しているのです。そのような者を退け、低くされることは、神様のふさわしい裁きなのです。それは、彼らにとっては、恥となります。彼らは、不正を行っていたら、恐れおののく者になることを知ることも神の御心です。ですから、神の前に祈っているのです。そして、神様がその御心を速やかに実現されることを願いました。そのようにして、神の栄光が現されるためです。